水戸 恵藍舎だより


by emispiral

カテゴリ:水戸藩歴史散歩( 10 )

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 先日、東京に用があったので、小石川後楽園(東京・水道橋)に立ち寄りました。

 折りしも梅は満開。水戸藩の江戸藩邸(上屋敷)にあった小石川後楽園と、地元の偕楽園が梅の花で呼応しているようなイメージをもちました。

 そういえば、桜田門外の変の映画化が決まったそうです。きっとこの小石川後楽園もロケ地になることでしょうね。完成がとても楽しみです。
by emispiral | 2008-03-09 20:00 | 水戸藩歴史散歩
 自分の中で、10年近く持ってきたテーマを、ようやくここに書けるようになりました。

 それはこれまでで初めて、天狗党と諸生党の両方を扱った企画展(「郷土の天狗等・諸生派の事跡」・那珂川町馬頭郷土資料館)が開かれたからなのかもしれません。この企画展は茨城新聞で小さく紹介されるぐらいでしたが、これは水戸にとっては画期的な一歩です。
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 江戸末期に、水戸藩は尊皇攘夷の革新激派(天狗党)と、家柄のよい学閥主義の保守派(諸生党)に分裂して、戦争になりました。お互いに殺し合った結果、水戸の有能な人材はみな死んでしまい、桜田門外の変などで倒幕のきっかけを作った水戸藩も、明治維新には乗り遅れてしまいました。

 実はこのときの内部闘争の恨みつらみが、今の水戸市の行政や政財界にもまだ影響を与えていて、天狗党系列か諸生党系列かで反目しあっているとか。事実、私が水戸市の文化振興課の方に、「水戸市はちゃんと天狗党と諸生党のことを扱わないといけないんじゃないでしょうか」と話したときも、「現在も両派の力関係が難しくて、扱えないんですよね」とのことでした。天狗党の300余人が処刑された敦賀(福井県)では地域の方が手厚く葬ってくださっていたし、天狗党が幕府軍と戦った高崎では県の博物館で立派な企画展も開かれていたというのに・・・。

 今回の那珂川町(栃木県旧馬頭町)で開かれた企画展も、旧水戸藩領とはいえ、栃木県。まだまだこの話題が茨城県内に堂々と入ってくるには、はばかりがあるのでしょう。いつかこだわりなく両派が力を合わせて、地域の発展に力を尽くしてくれる時が来るといいなあと思います。明治維新の二の舞にならないためにも。
by emispiral | 2007-10-31 11:49 | 水戸藩歴史散歩
 「藤内神社のフジ」という碑が、飯富地区(藤井町)にはあります。先日写真を載せた、彼岸花のある場所のすぐ脇です。
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 ここは、源義家(八幡太郎義家とも。源頼朝の曽々祖父)が、前九年の役で苦戦する父(陸奥守・頼義)の援護へ行く途中、立ち寄ったとされる場所です。 そしてその向かいにあるのが藤内神社。ここで義家は戦勝祈願をし、フジの枝を取って鞭としたとか。
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 このとき10万の兵士を休ませた場所は、その後「十万原」と呼ばれました。私が住んでいるのは、この十万原に造成されたニュータウンです。藤井町内の十万原地区ということから、「藤が原」という地名が生まれました。

 義家が奥州に向かったのは奥州藤原氏の祖である安部氏を倒すためでした。その途中で立ち寄った地が、現在は「藤が原」と呼ばれているとは、なんとも歴史の皮肉という感じがします。
 またそののちに起きた後三年の役において、義家は初代奥州藤原氏となる藤原清衡を援護し、勝利に導きます。義家と藤原氏・藤内神社のフジ・藤が原・・・こじつけだけど、私はおもしろい繋がりだなあと思っています。

 それにしてもよく言われる「奥州征伐」という言葉、どう考えてもひどいです。前九年の役は、勢力を拡大したいという源氏の私欲からの戦です。奥州では安倍氏と後の藤原氏の統治の下、とても平和で豊かな国づくりがされていたのに、源氏はわざと火種を起こして攻め入り、結局平安末期にはみな滅ぼしてしまいました。私は蝦夷・安倍氏・奥州藤原氏に思い入れがあるので、どうしても「征伐」とか「平定」という言葉には、やるかたない感じがしてしまいます。歴史はおおむね権力者の視点からのみ語られているのだから、仕方がないのですけれどね。
by emispiral | 2007-10-18 11:36 | 水戸藩歴史散歩
 前に書いた飯富地区(成沢町)には、江戸時代末期に水戸藩最大の私塾だった、加倉井砂山の日新塾跡地があります。うちから車で5分弱のところです。
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 茨城県と水戸市は、この日新塾跡地も含めて、弘道館や偕楽園などを「水戸藩の学問・教育遺産群」として世界遺産への登録を目指しているとか。先日の新聞には、「塾舎が特定できないので、発掘調査を進めています」と水戸市文化振興課の人のインタビューが載っていましたが、実は3年前ぐらいまでは、この場所に江戸時代からの塾舎が残っていたんです。水戸市はそれを保護せず、ほったらかしにしておいて、今さら発掘なんて、笑っちゃいます。そして、もう少し取り壊すのを待っていてくれたらよかったのに・・・と、本当に悔やまれます。

 そういえば、3年ぐらい前に加倉井砂山のお墓にお参りに行ったとき、水戸市の文化振興課の人たちにばったり会いました。それで、思わず話しかけて、「日新塾をなんとかしてくださいよ!」とけしかけたのだけれど、一市民の訴えじゃ、やっぱりたかがしれていました。ああ、本当に無念。

 でも、物事はとりようかな。建物はなくなってしまったけれど、日新塾にスポットが当たりつつあるのは確か。30年で3000人も学んだというこの場所も、いずれきちんと整備されていくのでしょう。地域の歴史を子どもたちに語り継いでいくというのは、自治体の役目ですからね。そうそう、先日この近くに住むおばあちゃんに、日新塾にまつわるお話を少し聞くことができました。またそのうち書いてみます。
by emispiral | 2007-10-12 06:05 | 水戸藩歴史散歩
 今年初めに引っ越してきた水戸市藤が原は、以前は飯富村といわれた地区に属しています(1957年に水戸市に合併)。 実はこの地区は、中世以降栄えた「水戸」よりもずっと古い歴史をもち、その歴史ははるか弥生時代までさかのぼります。

 自分が住んでいる場所がかつてどんなところだったのかを知ること、私は大好きです。過去をたどる「点」(事実)を浮き上がらせていくと、やがてそれらがつながって線になり、さらに面となり、そうすることで自分の住んでいる場所の未来が見えてくるのです。ただ残念なのは、きちんとした形で飯富村の歴史が残っていないこと。公民館や市立図書館で、少ない資料をゆっくりゆっくり調べています。
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 これは、うちから車で2~3分のところにある、重要スポット。源義家も立ち寄った場所です。
by emispiral | 2007-10-09 20:57 | 水戸藩歴史散歩
 桜の話題をもうひとつ。先日、水戸から上野行きの高速バスに乗りました。首都高速を降りてしばらくゆくと、バスはほんの数百メートルだけ隅田川の堤防わきを走ります。

 折りしも、堤防沿いの桜は満開。「♪春のうら~らの~隅田川~」と、ひとりでに心の中で音楽が鳴り出しました。今は両側をビルで囲まれてしまっている隅田川も、昔はもっと情緒があったのでしょうね。

 堤防のすぐわきは、墨田公園。首都高速の高架の下で、いつも美しい緑をたたえています。ここは、江戸時代、水戸藩の下屋敷があったところ。小梅藩邸とも呼ばれ、藩主や位の高い武士が居住する上屋敷(現在の後楽園遊園地一帯)の別邸として、従者の蔵奉行、水主、鷹匠の住まいとして使われたり、船蔵や材木が置かれたりしていたところです。
 徳川斉昭のブレーンとして、また水戸学の学者として名を馳せた藤田東湖は、この下屋敷で3年間蟄居させられた折、「正気の歌」などのちに全国の尊王攘夷の志士たちを心酔させる著作を多く書きました。現在は「正気歌碑」という石碑が建てられています。

 私はこの墨田公園はいつもバスから眺めるばかりで、まだ実際には足を踏み入れたことはないのですが、いつか・・・と思っています。それでも、毎回その数百メートルの堤防沿いの道を通るたびに、当時の隅田川と下屋敷の様子や、水戸街道(現在の国道6号)を何日もかけて江戸に上ってきた武士たちの姿などを思い浮かべたりして、ひとり楽しんでいます。
by emispiral | 2006-04-04 10:32 | 水戸藩歴史散歩
 常陸国第三宮の吉田神社(水戸市)。その境内にある枝垂れ桜が今、満開です。
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  吉田神社は、江戸末期、水戸城内を占拠した諸生党(保守派)に交渉をしようと、天狗党(革新派)が陣取った場所。 結局交渉は決裂し、備前掘付近での激戦の後、諸生党・天狗党両派の闘争は激化していきました。水戸城とその城下を見わたす丘の上で、そんな歴史の数々をずっと見守ってきた桜です。
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                                             (4月1日撮影)
                          
by emispiral | 2006-04-03 14:22 | 水戸藩歴史散歩
 うららかな陽気に急かされて、偕楽園に行ってきました。
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 偕楽園は、「水戸第九代藩主徳川斉昭公が、天保13年(1842)に民衆と偕(とも)に楽しむという趣旨で造った」ということになっています。そこだけ聞くと、士農工商の身分制があった時代に、なんと素晴らしい考え!と思ってしまいますが、これには実は裏があるのでした。(夢を壊すようでごめんなさい。)

 水戸藩は御三家のひとつだったことから、たいそう裕福な藩であったようなイメージがあります。けれども、藩主は他藩と違って江戸小石川(現在の水道橋)にあった水戸藩邸に常駐だったため、江戸と水戸で二重にお金がかかって財政は常に苦しかったようです。その上、光圀が始めた「大日本史」編纂という大事業も抱え、そのひずみは武士や農民たちに重くのしかかっていたとのこと。

 そんな水戸藩の九代目の藩主斉昭は、なかなか過激な人物で、大改革に乗り出しました。まずその第一は、なんといっても「倹約」。江戸にいた役人とその家族500~600人を水戸に帰したり、芝居・茶の湯、歌など武士の文化的なたしなみをすべて禁止したりました。そうして、武士たちの不満を和らげるために計画したのが偕楽園なのです。また、梅の実で梅干を作り、戦や飢饉に備えるということも、陰の目的でした。当時、側近の藤田東湖をはじめ、役人たちは、「そんなものは今すぐ必要ではない」と計画に猛反対。斉昭は、それを押し切って工事を始めてしまったそうです。

 そうして斉昭がもうひとつ心血を注いだのが、「尊王攘夷思想」。その実践の果てに、藩内は天狗党(革新派)と諸生派(保守派)に内部分裂しました。桜田門外の変が幕府崩壊のきっかけとなったという評価もあるものの、国のためにと過激な行動に走った天狗党は理想と現実の間で空回り。結局は諸生派との内部戦争となり、水戸藩は自滅の道を歩みました。多数の命の犠牲を払ったにもかかわらず、結果的には明治維新政府にはひとりも入閣できず、その後も水戸は他の県庁所在地からなんとなく出遅れている感が否めません。そういった水戸のちょっと後ろ向きなイメージを和らげてくれてるのも、この偕楽園の存在なのかなと思います。昔も今も、偕楽園は水戸の人たちの気持ちを和らげる場所なのかもしれません。
by emispiral | 2006-03-08 20:17 | 水戸藩歴史散歩
 3月に入って、なんとなくまた春に近づいた気分です。今日はここ6年ぐらい続けている常磐共有墓地(水戸市・松本町)へのお墓参りに行ってきました。常磐共有墓地は、水戸藩士たちとその子孫の方たちが眠る広大な墓地です。墓地は気色が悪いものと相場が決まっていますが、私にとっては、水戸の歴史を様々な形で支えてきた人たちの存在を感じる大切な場所。訪れると、いつも勇気付けられるような気がします。

 すっかり顔見知りになった管理人の神成(かんなり)さんが私を呼び止めてくださって、私たちは雨宿りをしながらしばしお話をしました。彼が70歳を越えたのでもうそろそろ引退したいと思っていること、江戸末期の派閥闘争が現在の水戸の人間関係にも影響を与えていることなど・・・。

 私たちがいろいろ話をしていると、80歳ぐらいのおじいさんが私たちの方にゆっくりと近づいてきました。彼は黄色いビニール傘を差し、手にお菓子の入ったスーパーの袋をぶらさげていています。
「どうも。雨で大変ですね。」
神成さんが言うと、彼は袋からみかんが3つ入った袋を差し出して
「これ、食べてください。あと、これでコーヒーでも」
そう言って、耳にはさんであった200円を神成さんに手渡しました。
「いつも、すみませんね。ちょっと中でお茶でも」
神成さんが誘いましたが、そのおじいさんは顔の前で大きく手を振ったかと思うと、くるりと背を向けてお墓の方へ行ってしまいました。
 
 そして彼が見えなくなると神成さんが話し始めました。
「あの人は、ああやってもう2年ぐらい毎月私のところに来て、必ず果物と200円をくれるんですよ。先月はバナナひとふさでね。なんで200円なのか、いつか聞こうと思っているんですけどね。いつもああやって、耳からお金を出して・・・。ここには1ヶ月に2~3回来てるんじゃないかな。何年か前に、私があの人のお父さんの名前を石碑の中から見つけてあげたんですよ。お墓もあっちにあったのを見つけたしね。そしたら、泣いてありがたがって、『神成さんは神様だ』って。天狗党(水戸藩士の革新一派)の遺族で、この神社(殉難した水戸藩士を祀る回天神社)の例祭に毎回来るんだけど、遺族代表になってくれって言っても、『私は静かにこっそりお参りするだけで幸せなんです』って言って、はじっこの方に座って、いつも涙を流しているんだよ。あんな人はなかなかいないよ。なんだかありがたい感じでこっちが泣きそうになるよ。」
私は話を聞いているうちに胸がいっぱいになってしまって、涙までこぼれてきてしまいました。神成さんの目もしっとりして見えました。

 それから私もお墓の方に行くと、先ほどのおじいさんがお墓にお榊を供えているところでした。私は思わず、「こんにちは、先ほどは・・・。」と声をかけました。
「あんたも天狗党の関係の人?」
とても優しい言い方でした。
「いや、遺族ではないんですけど、水戸の歴史に興味を持っていてそれでよくここに来るんです。」
「そうか。ここはいろんな人がいるよ。あっちには格さんもいるし。こういうところに来ると、いいことがあるよ。」
彼はそう言って、先ほどのスーパーの袋から森永のミルクキャラメルを一箱出して、私にくれました。それから少し立ち話をしましたが、なんとも心があたたかい感じで、とても不思議な気分でした。

 そうしてお墓をひと巡りしてからもう一度神成さんのところに戻りました。『さっきの方と話ができました』と言ったら、神成さんもとてもうれしそうでした。私はキャラメルの半分を神成さんに差し上げて、そうしたら彼も先ほどのみかんを1つ分けてくれました。3月の初めの日は、こんなほんわかとした感じで始まりました。

 
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by emispiral | 2006-03-01 17:54 | 水戸藩歴史散歩
 大好きな蝋梅(ろうばい)の香りを求めて、弘道館に行ってきました。梅に先駆けて咲く蝋梅は、ジャスミンに似た甘く馨しい香りです。きりりとした雰囲気の弘道館では、ひときわこの蝋梅の香りが引き立つような気がしました。
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by emispiral | 2006-02-14 23:57 | 水戸藩歴史散歩