そういえば、2ヶ月ほど前もこんなことがありました。春日大社のお水取りの記事を読んだことから、ここ4~5年ぐらい連絡を取り合っていない私の母親の歳ほどの友人を思い出しました。彼女は以前、お水取りを見に奈良に行ったときに、私にお土産をくださったからです。で、そうしたら、なんとその翌日に茨城県立図書館で彼女にばったり会ったのです。彼女の方でも、前日に多くの住所録を破棄した中に私の住所もあったとのことでした。それは正解。なぜなら私は1年と少し前に引越しをしたので、その旧住所はもう用を成さないからです。それからいろいろと話していくと、会わない間に双方の母娘の間で似たようなことが起きていたようで、私たちは何重にも驚きました。
いろいろと記憶をたどっていくと、私の人生の中でもっとも強烈だった「ばったり」は、4年ぶりに以前住んでいたアムステルダムを訪れたときのこと。とても親しくしていたけれど仲違いをして音信不通になってしまっていた友人に会って謝りたいなと思っていたら、アムステルダムに着いたその日の午前中に街中で会えてしまったんです。日本にいても、会えない人もいるというのに。さらにはシンガポールで教え子に10年ぶりで会ったり、バリで友人に会ったりというのもありました。
少し話は変わりますが、この前の週末のもう1日は、あるデザインのワークショップに参加しました。そのテーマが「チューニング」。本当に本当に、興味深いワークショップで、様々な意味での「チューニング」ということを最近思っています。
そうしたら、こうやって人にばったり出くわすのも、ある意味人と人の「チューニング」なのでは?って感じたんです。ラジオのダイヤル(めっきり見なくなったけど)を回していって、ある周波数に合う瞬間みたいに、ひとりひとりの動きがどこかでピタっと誰かとチューニングする・・・。知っている誰かばかりではなくて、見知らぬ誰かと初めて出会うのも、心惹かれる何かに出合うのも、みんなチューニングなのかもしれません。その裏側にどんなからくりがあるのかはまだよく分からないけれど、いろんなことをチューニングと捉えてみると、なんだか世界の仕組みがすてきに面白く見えてくるような気がしています。

この展覧会の目玉は何といっても、薬師寺金堂の「日光・月光菩薩立像」(国宝)が2体揃って寺外で初公開されることと、普段は光背があるために見ることのできない側面や背面があらわになるということ。この2体の仏様の背中見たさに、入場50分待ちも全く気になりませんでした。
最近、博物館や美術館へ行くと、どうもキュレーターのたくらみにも興味が湧いてしまって、「美術品の見せ方」にあれこれ感じ入ってしまう傾向があるのですけれど、今回も空間の構成やらライティングやら、その予想外のスタイルに「こう来たか!」と驚きました。特に「日光・月光菩薩立像」は、国宝としての気高さが確かに表現されていましたし、そういった演出のもと、計算し尽くされた光を浴びる仏像の背中のラインの美しさには、惚れ惚れしました。
でも・・・仏様がスポットライトを浴びたスターのように空間に屹立し、美術品と化している状態は、やはり本来の見方ではないのではないかとの感想を強く持ちました。仏教のことに詳しい方の話によると、お寺から仏像を移動して展覧会に出品するときは、必ず魂を抜く儀式をするんだそうです。今回は、「その話はこういうことだったのか」と、とてもよく理解できました。それが何よりもの収穫です。
今度は、ちゃんと本来の場所においでのお二方に、静かに対面してみたいと思いました。きっと、近いうちに。

古い木造校舎は、生き物みたいにあたたかな存在感があります。まるでその中の空気や人間たちをやさしくしてしまうような・・・。
廃校になってしまった今も、そのたたずまいは全く変わらず。とてもなつかしく、そしてうれしくなりました。

二宮金次郎さんも、ちゃんと健在。
近頃はいろんな分野において、「より速く、より効率的に」といった風潮がありますね。でも、そこからこぼれ落ちてしまうものの中に、実は本当に大事なことがあったりします。そんなものごとにもしっかりと目を向けていたいと改めて思いました。